昨年、私が留学をしてから20年の節目を迎えることができました。
20年の時を経て私の生活や、年齢は変わりましたが、2つほど変わらないもの、そして以前よりも強くなっているものがあります。それは1年間で出会った友人たちとの絆、そして今でも私の人生を支え続けてくれているホストファミリーとの家族の絆です。
私が留学したのはオーストラリア、南オーストラリア州のワイアラという小さな町でした。小さな町と言っても州で2番目に大きい街(当時)でオーストラリアの中では都会でした。信号は町の中に4つしかありませんし、20分で縦断できるようなのどかな町でした。
家族は主夫の父と、司書の母、近所に独立した姉が2人、その他叔父や叔母、祖父母が同じ町に住んでいました。という事は何かをすれば家族、そして一族全員が知ることとなるという事もあり、最初はびくびくしていましたが、今では全員が私を家族の一員と迎えてくれています。
今思い返せば当時はなんて自分勝手な人間だったのだろう。よくも1年間ホストファミリーは耐え抜いたな。と思う1年でした。ホストマザー(母)とファザー(父)には今も頭が上がりません。
というのも、日本では自分の行きたいところにいつでも行くことができたし、特に近くのスーパーに行ってくるなんてことはたいしたことではありません。しかし両親はいつも私に出かけるときや、友達と遊ぶときは必ず「Can I ?」と聞きなさいと言っていました。しかし私はつい「I will go XXX.」と言ってしまいよく叱られたり、口論になったりしました。
現地に到着したときはThank you とSorry しか口から出てこないような英語力でよく口論までできたなと今では思いますが当時は必死だったのでしょう。ただ、15歳の私には現地の人にしかわからない危険なことや、私が安全だろうと思っている場所でもそうじゃないのかもしれないという事が理解できなかったようです。
日本では周辺の危険な場所、行ってはいけない場所等すでにわかっているから大丈夫なんて過信があったのだと思います。帰国してオーストラリアからの留学生を3ヶ月ホストすることになり、そのことを痛感しました。
すぐにホストファミリーに自分がどれだけ自分勝手な振る舞いをしていたのか謝罪し、感謝のメールを送りました。そのこともあってか今でも本当の娘のように接してくれています。面白いもので楽しい記憶、うれしい記憶ももちろんありますが、ひどく叱られた日は今でも日付まで覚えているものです。
やはり留学と言えば語学力の向上なしでは現地を楽しめないのも事実です。しかし、どう向上していくのか、黙っていても向上するのか、試行錯誤していました。その時私を変えたのが父の一言です。
「君は学校でお友達と話をするのに、家じゃぁだまっているのかい?」
私は学校でもそんなに友達と話をしていたわけではないのにと思いましたが、悔しくてそれから学校から帰ったら学校であったこと、勉強したことを全て父に話しました。その後、私の語学力はぐんぐん伸びていったように思います。そのことで友達もたくさんでき、充実した留学になりました。
留学後は大学の2カ月間の夏休みは毎年のようにオーストラリアに「帰国」し、ホストファミリーの家に滞在していました。
オーストラリアでは21歳の誕生日を盛大にお祝いします。それを狙って21歳の誕生日にも「帰国」しました。叔父からはシドニー旅行2週間のプレゼントまでしてもらいました。
その後も2年に一度は「帰国」したり、また母が日本に来たり、私もワーキングホリデーで再度1年間渡豪したりと交流を続けています。
うれしいことには留学当時まだ生まれていなかった姪が日本に滞在したいということで、一昨年私の母校に2カ月ほど通学させてもらいました。これで本当の意味での交換留学ができたのではないかと思っています。
私が留学した当時インターネットはまだなく、日本の家族や友達とのやりとりも手紙だけでしたが、帰国して間もなくインターネットの開通、その10年後にはFacebookの登場とどんどん家族との距離は短くなっています。特にFacebookの登場は私の中で大きく、家族だけでなく、いとこや叔父、叔母ともつながり困っていることがあれば励まされ、うれしいことがあれば家族、一族全員で共有でき、まるで隣近所に住んでいるかのようです。
先日、仕事を辞職した際に「帰国」した際、いつもふざけあっている父と一緒にテレビを見ていた時に何気なく父が「So, are you happy?」と聞いてきました。この一言で私の事をすごく心配してくれていて私がhappyかどうかさりげなく確認してきたのだという事がわかり心の底からうれしかったです。
私の人生での節目、節目で相談に乗ってくれたり、励ましてくれたり、この留学を通して家族が増えたこと、1年間私を放り出さず置いてくれたことを本当に感謝しています。
AFSの留学の醍醐味と言えば高校でできる友達もそうですが、世界各国からの留学生との出会いです。
私の町には他の留学生はいませんでしたが、私の地域にはタイ、マレーシア、カナダ、ドイツ、ボリビア、グアテマラ、アメリカ、アルゼンチン、イタリア、ブラジルからの留学生がいました。
年に数回集まってオリエンテーションキャンプがあったり、地域の留学生みんなでアウトバックキャンプにも出かけたりしました。留学生同士、家庭や学校で悩んだりすることは似ていてお互い励まし合い、また一緒に楽しい時間を過ごし絆を深めました。
世界各国からの留学生との交流は国、宗教が違っていてもみな同じ人間、同じように感じ、同じように楽しみ、悲しむのだという事を肌で感じさせてくれました。
帰国後は手紙でやり取りをしていましたが、大学受験などで忙しくなり、疎遠になっていましたが、Facebookの登場でほとんどの留学生と連絡が取れるようになりました。
一昨年には長い間ずっと連絡を取りたかったイタリアの留学生とつながりお互い興奮したものです。今ではFacebookを通してお互いの生活を報告し合い、互いに刺激を受け、今でも一緒に成長している気持ちになります。
実際に再会した人もいます。マレーシアからの留学生でした。彼女は日本が大好きで来日した際2度再会しました。今年の4月にも再会し、この度は我が家にも招待しました。何年離れていても会った瞬間から20年前の私達に戻ることができ、話も弾みました。
残念ながらこの留学レポートをAFSからお願いされた直後の11月11日、彼女は出張先のプラハに向かう機内のなかで突然亡くなってしまいました。20周年を記念して同窓会を開こうとみんなで話していた矢先の事です。その時の衝撃は私たち同期生の中で計り知れませんでした。彼女の死を誰もが悲しみ、悼みました。
彼女の死を通して再確認したのが私たち同期生の中の絆です。一緒に1年過ごしてきた同志として何年たっても、何十年たってもお互いを思いやる気持ちは変わらない、また今回の事でさらに強くなったと感じています。
彼女の死を受け入れることは私たち同期生の中でまだ時間がかかることでしょう。オーストラリア留学中だけでなく、今でも彼女の性格、生き方が私たちに与えてくれた影響が大きかったからです。
AFSでの留学がきっかけで大学での専攻を決めたり、翻訳会社に就職したり、また、その後の転職で留学生のお世話をする仕事をしたり、私の人生の中で1年間の影響はいたるところにあります。全てと言って過言ではないでしょう。
ただ、これもやはり家族、友人たちとの絆の上に成り立っていると思っています。
たかが1年されど1年。1年間で人生は180度変わります。この1年は私の人生の中の誇りです。
この留学レポートを若くしてこの世を去ったマレーシアの友、マニサに捧げたいと思います。
-嶋田千里
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