わたしがパラグアイに留学した理由は、「時間がゆっくり流れる国」という言葉に魅かれたから、ただそれだけです。1年間の留学がしたいと思っていたので、AFSのパンフレットに載っていたこの言葉に一瞬で惹かれ、パラグアイを第一希望にしました。
その言葉の通り、パラグアイ人はとてもおおらかで時間にとらわれることなく生活していました。友達が「2時に遊びに行くよ」と言うので待っていると、30分たっても来ない。心配して電話をすると「もう着くところだよ」と言われる。結局はその1時間後ぐらいに来る、なんてことはいつものことです。私はこの時間感覚がとても好きでした。
わたしの街にはローカル線のバス停も時刻表もなく、街の人たちは、だいたいこのあたりで、だいたいこのくらいの時間にバスが来るよ、というゆるい認識のもと過ごしておりました。
夕方になり外が涼しくなると、庭や家の外(玄関先ではあるがほぼ歩道)に椅子を出し、家族みんなで軽食を食べ、テレレ(パラグアイの伝統的なお茶のこと)を回し飲みしながら、ゆっくりとくつろぎます。この時間は家族みんなでゆっくりとお話しをする為の大切な時間でした。
わたしのパラグアイでの友達はみんなパーティーや踊ることが大好きでした。学校の休み時間になると、大音量で好きな音楽をかけ、みんなで踊る。友達の誕生日パーティーは盛大にお祝いする。部屋中が風船で埋まったところでサプライズパーティーをしたりもしました。
特に15歳の誕生日はパラグアイではとても大切にされていました。お城のようなとても豪華な建物を貸切にして、誕生日を迎えた女の子はまるでお姫様のようでした。
また、お別れ会(わたしが留学中にホストブラザーが留学に行った為、彼のお別れ会)では、主役の頭の上から袋ごと小麦粉をたっぷりとふりかけていました。部屋中が小麦粉だらけになってもまったく気にせず、みんな身体中が小麦粉まみれになるまでかけ合っていました。
ホストマザーが彼女の友達にわたしのことを「わたしの娘よ」と紹介してくれていて、本当の家族のように受け入れてくださっていると思え、とても嬉しかったのをよく覚えています。
良い友達にも恵まれ、学校の授業で分からなかったところをよく友達の家に行って教えてもらっていました。テスト前になると、その友達の家に通い一緒にテスト勉強をしていました。
AFS生で一番仲良くなったのは、タイ人の女の子でした。到着直後のオリエンテーション、英語もうまく伝わらず周りのAFS生となかなか打ち解けられない中、彼女だけは同じアジア人ということもあってか、すぐに意気投合しました。彼女とは派遣された街が遠かったのですが、一緒にイグアスの滝を観に行ったりしました。お互い、留学生活が長くなるにつれて、すべてをスペイン語で話せるようになっており、お互いに面白いねと笑いあったこともあります。
また、他のAFS生では、同じ街に派遣されたドイツ人の女の子2人にもとても助けられました。どうしても二人がドイツ語で話すとわたしには分からない。そんな様子を理解してくれてからは、2人は意識してスペイン語で話してくれていたと思います。
3人で集まると、3人とも不慣れなスペイン語で、ホストファミリーのことや学校のこと、なんでも相談できました。わたしが学校の勉強についていけず、悩んでいたとき、2人から「大丈夫だよ」と言ってもらえて、とても勇気をもらえました。「もう少し頑張ろう」と前向きな気持ちになれたのは、2人のおかげです。やはり、同じ留学生として同じような悩みを抱えている為、お互いの悩みにとても深く共感でき、「どうしたらいいかな」と一緒に考えることができました。
同じ志を持った仲間がいるということは、つらいことを乗り越える力を持っているのだなと感じました。
最後になりましたが、わたしがパラグアイに留学して本当に良かったと思っていることについてお話したいと思います。パラグアイといういわゆる発展途上国に留学出来たこと、それは今のわたしの人生に大きく影響しています。
パラグアイで一番衝撃を受けたことは貧富の差です。わたしのホストファミリーはレストランを経営しており、とても裕福な家庭でした。大きな家と庭とプールもあり、お店がある。
でもホームスティ先のすぐ近くには、路上で生活している方々が何人もいらっしゃいました。路上に寝ころび、いまにも息が止まってしまうのではないかと思ってしまうほど衰弱している人もいました。
露店が並んでいる市場のようなところでは、お金を出すたびに、路上で生活している方々が近づいてくる。車に乗っていても信号や渋滞で止まるたび、窓をバンバンと叩く方がいる。
ホームスティ先の家の周りは高い塀で囲まれており、玄関や車のガレージのところだけ柵になっていたため、その柵の間から手を伸ばし食べ物を求める方がいる。毎回ではありませんが、ホームスティ先にいるお手伝いさんがまるで野良犬にあげるかのような雑な扱いでその方に食べ物を渡している姿を見たこともあります。
そんな光景が当たり前のように、そこでは、「日常として」ありました。わたしは帰国してからもう数年経ちましたが、あの目の前に広がる現実にある圧倒的な貧富の差を忘れることはできません。情報としてはもちろん知っていましたが、やはり自分の目で見て経験したものはとても強く印象に残っています。
帰国してすぐ高校生のとき「パラグアイで感じた貧富の差」この問題に対してなにか出来ることはないかと考えて、まずボランティア活動を始めました。その中で特別支援学校へのボランティアに行き、初めて障害を持った方と接したとき、「わたしはこういう仕事がしたい」と感じました。
高校卒業後、4年間福祉を勉強し、社会福祉士と精神保健福祉士になりました。今は知的障害者の入所施設で生活支援員として働いています。今、この仕事が本当に楽しくて毎日やりがいを感じています。高校生のころ憧れていた国際的な仕事ではないですが、今はこの仕事と出会う為にパラグアイに留学したのではないかと思えるほど、わたしはこの仕事に誇りを持っています。留学先を選ぶとき、AFSのパンフレットを隅から隅まで読んでよかったなと思っています。
直接的に世界の貧富の差に対して取り組むような仕事ではまったくないですが、きっとわたしは、「社会的弱者」と呼ばれる方々に寄り添いたいのだと思います。そう気づかせてくれたものは間違いなくパラグアイへの留学経験でした。
パラグアイで知った路上で生活している方々や、障害を持った方々、その他にも、世界にはたくさんの生きづらさを抱えてそれでも必至に生きようとしている方々がたくさんいます。わたしはそんな方々に寄り添って生きていきたいのだと思います。
高校生というたくさん吸収することが出来る年齢で、パラグアイという国に留学出来たこと、それはわたしがどう生きていくのかを教えてくれました。
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