大阪・サンパウロ姉妹都市協会が主催する「第9回ポルトガル語スピーチコンテスト」に、AFS帰国生が入賞しました。
◎審査員特別賞
北村 佳のん さん(AFS63期 ブラジル派遣)
写真提供:大阪・サンパウロ姉妹都市協会、タカラベルモント株式会社広報室
審査員特別賞
金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校 北村 佳のん
私は今まで知らなかった。
母に連れられ、 幼い頃2度にわたり、ブラジルへ。 第二次世界大戦で移民を経験した先祖の叔父さんや、その共通の先祖を持つ日系の親戚の元を訪問した。
帰国して日常に戻っても 、ブラジル国旗が描かれたお皿に乗った、母が焼いたPão de queijo(ポンデケージョ)を食べていた私は 、漠然と「私は、ブラジルに縁があるんだな」と感じていて、それが普通だと思っていた。親戚がブラジルにいる、そして日本語を使わない世代の彼らが、勉強して私たちと連絡を取り続けようとしてくれていることが当たり前で、そんな彼らが、どんな歴史を踏まえ、何を思って、私たちと交流してくれているのかを何も知らなかったのだ。
ある日、移住家族会の長を務め、いつも先陣を切って親戚と連絡をとっている母方の祖父が、実は現地の言葉を話せないことを知った。そのため、母は、主に英語英語、さらに学生時代、半年間のブラジル留学で会得した数少ないポルトガル語会話で、祖父を助けていた。
翻訳機が必要だ。いや、機械を通したコミュニケーションは、それだけで壁を作ってしまうだろう。これまで、何も知らなかったが、咄嗟に私たちの未来を思った。この縁が風化され、途絶えてしまうことを憂い、急に寂寥の念に襲われたことを、今でも思い出す。
それからしばらくの月日が経ち、高校に入学した私に、両親は留学を勧めてくれた。
「英語圏に行って、語学力を上げてこい」と笑顔で言っていた母さん。
知っていたよ、私は。まっすぐに目を見て言った、「ブラジルのポルトガル語を勉強したいげん 。ブラジルしか行かんよ」という本音の反論に対し、母さんは、「本当はそうして欲しかったんやよ、ずっと」と言って、泣いて受け入れてくれたね。
AFS日本協会の試験に合格し、日本からは3名しか選ばれないブラジルへの1年間の交換留学が決まった。
淡々と話は進み、私を受け入れてくれるリオグランデのホストファミリーが決まり、 語学の勉強を始め、私の高校1年生の春はブラジル色に染まる。リオ五輪の開幕とともにブラジルに到着し、それから植民地時代の細やかな装飾が美しい建物が並ぶ田舎街で過ごした。留学を始めて6ヶ月経った夏、私は国内線乗り継いで1人旅をし、親戚の元へたずねて行ったが、すっかり身についた方言に、親戚のみんなは微笑んでくれた。
カラグアタトゥーバに住む日系2世の2人の叔母さんとの夜。日本に行ったことがない叔母さんが、リベルダージで買った風鈴の音は、控えめでも冴えていた。
そして、Feijão(フェイジョアの豆)を煮ながら「カノン、人生にはたくさんのAlegria(喜び)があるね。全部に感謝しなきゃいけないよ。そしたら、私たちのことを助けることもできるし、あなたの家族も、それに、世界も助けることができるかもしれない。」と言った、叔母さんの声が、今でも頭に響いてくる。
当時は、「えっ、それ言いすぎだよ!ちょっと恥ずかしい。」
そう思っていたが、その後、出身地の金沢と姉妹都市であるポルト・アレグレで、日本祭りの計画を手伝い、さらに帰国後は、ブラジルから来る留学生の市内案内を務めることもできた。当初の留学目的だった、「先祖からの縦のつながりを途絶えさせたくない」「親戚を知りたい」という点を達成し、いつの間にか、「(自分の家族・親戚以外の)横のつながりを広げていきたい」「ポルトガル語で、もっと話していたい」という気持ちが組み合わさり、自分が一本のしなやかな糸になったような気がする。
おばさん達の顔が浮かぶ。私のAlegria(喜び)は人を幸せにしたのかな?
今は高校生として、大学で生物学を専攻するために受験勉強を頑張っている。なぜなら私は、2国を繋ぐ架け橋となれるように、今度は専門家として、ブラジルの豊かな自然を保護し、伝えていく使命を感じているからだ。
自分のしなやかな糸を、さらに強化し、2国間の国際協力の一翼を担いたい。叔母さんが言った人生のAlegria(喜び)をいろんな人に広められる、そういう人間に私はなりたい。
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