2016年2月21日(日)、「AFS友の会新春の集い」がAFS日本協会があるミツヤ虎ノ門ビルの会議室で開催され、ジャーナリスト・映画監督ジャン・ユンカーマン氏に「日本と共に、AFS留学から47年」と題する講演をしていただきました。
ウィスコンシン州生まれのユンカーマンさんは1969年の春、AFSスクールプログラムで来日。八王子セミナーハウスでのオリエンテーションに私は同じ13期のリターニーとともに世話役として参加し、その後もアドバイザーをつとめたというご縁から、今回の講演要旨をまとめることになりました。
留学中、ジャンさんは慶応義塾志木高校に通いましたが、その後、日米を拠点としながら政治と文化をテーマとしたドキュメンタリー映画を多数発表して、世界的な評価を受けておられます。
講演会当日は夫人の松本薫さんのほか、AFSホストブラザーの小島新平・マリご夫妻も出席されました。
冒頭、ユンカーマン氏は自分の日本との最初の出会いは、実は生まれて間もない1952年だったことを語りました。朝鮮戦争の当時、父は内科医として横須賀の海軍基地の病院勤務で、一家は葉山の日本家屋に住んで地元の人たちとも打ちとけた付き合いをしていたそうです。
太平洋戦争後まもないころに、お互いに敵国意識を乗り越えて交流をした両親は、AFSのモットー《Walk together, talk together、all ye people of the earth; then and only then shall ye have peace. 》の精神を、このときすでに体現していたのだというジャンの言葉が印象に残ります。
米軍基地と山ひとつ隔てた古き良き日本という二つの世界が、その後の氏の日本との関わりにも引き継がれていったのではないかと、お話を聞いていて感じました。
以下、スライドをまじえた講演の内容をユンカーマン氏を主語として要約します。
自分はAFS留学中、ホストブラザーと全国を旅行し、行き先は古いお寺が多かったが、原爆に関心があって、広島・長崎も訪問した。1969年の夏には人類初の月面着陸という大きな出来事があり、そのとき私は小浜にいて、満月を見て感慨にふけった。
帰国後、スタンフォード大学で日本語・日本文学を勉強し、1975年に再来日。ヴェトナム反戦運動を経て、かなり政治的にラディカルになっていた私は小さな通信社に入って、水俣や三里塚を取材し、沖縄には6ヶ月滞在した。こうしてジャーナリストになり、その延長線上で映画制作をはじめた。
1975年に友人の紹介で、東松山の丸木美術館を訪れ、「原爆の図」の作品を見てショックを受けた。それ以前の私の原爆のイメージといえば、キノコ雲と焼け野原の風景だったが、初めて原爆の下の人間の姿を見て、アメリカ人に見せなければと強く思い、それが最初の映画作品『刧火―ヒロシマからの旅』(1986年、英題Hellfire)につながった。
丸木夫妻は当初の原爆被害の絵だけでなく、南京大虐殺、アウシュビッツ、水俣の図も描いて、視野を広げていった。PBS(アメリカの公共放送ネットワーク)のための映画を制作した際、そこに被害者と加害者両方の視点を含む普遍的なメッセージが込められていたからこそ、アメリカで受け入れられたのだと思う。
この作品をきっかけにシグロという制作会社との協力関係ができたが、その成果のひとつとして、『老人と海』(1990年、英語版Uminchu)で与那国の老漁師を描いた。伝統文化にも関心があって、『夢窓-庭との語らい』(1992年)を制作した。AFSホストファミリーの父親が当初の鹿島建設からカジマ・ビジョン社長になっていて、スミソニアン研究所と共同制作をした。AFSの縁とバブル経済のおかげで贅沢な作品が仕上がった。桂離宮、西芳寺などを題材とし、武満徹がオリジナルの作曲を担当してくれた。
ミシシッピ川の旅を描いた『The Mississippi: River of Song』(1999年、日本語版『歌うアメリカ』)もスミソニアン研究所とカジマ・ビジョンの共同制作だった。アメリカ滞在中に二人の子供が生まれ、長女の小学校入学に合わせて、1999年に日本に移り、その後は日本が生活と仕事のベースになっている。
それからの中心テーマは憲法9条と沖縄だ。私はヴェトナム戦争中、憲法9条の戦争放棄に感動していたが、その後の日米軍事同盟強化の動きに懸念を抱いている。最初、表面的なレベルでしか行なわれていなかった憲法改正論議についての記録映画を大学の教材用に制作したが、作っている間にこれは面白いと思い、『映画 日本国憲法』(シグロ制作、2005年)として完成させた。
この映画にジョン・ダワー教授が登場するが、私の大学院時代からの長い付き合いになる。公開時の2005年、日本人の6割が「憲法は改正すべき」という意見だったが、その後の3年間で「9条の会」が全国にでき、3分の2が改正反対となった。それは、映画の力ではなく、草の根運動、知識の力によるものだ。分かれば分かるほど、改正しないことが正しいと確信できる。この10年間の世界の動きを見ると、武力で問題が解決しないことは、目に見えている。40年前、アメリカはこの教訓をヴェトナム戦争から学ぶべきだったが、イラン・アフガンで戦争を始めた。
最後に最新作『沖縄 うりずんの雨』(2015年、シグロ制作、英題The Afterburn)について触れたい。
「うりずん」とは「潤いはじめる」という意味の沖縄ことばで、3月から5月にかけての希望に満ちた春の季節だが、ちょうど沖縄戦の記憶と重なり、人々の間に欝や落ち込みが起こる。戦争のトラウマは終わらないどころか、深化していく。この映画は、岩波ホールでの6週間の上映で2万人近い観客を集め、ドキュメンタリーとしては大成功といえる。
作品の一番のメッセージは、沖縄にとって70年は長すぎるということだ。辺野古への基地移転は止めるべきで、米軍基地の全面撤退が一日も早く必要だ。現在、アメリカ版を再編集中で、4月ごろからアメリカで公開の予定だ。
熱のこもった講演のあとの質疑応答では、ユンカーマン氏が語った日本の加害者としての側面を取り上げることの重要性への共感が述べられた一方、米軍基地撤廃論は非現実的ではないかという疑義や沖縄と本土の負担の不平等をどう考えるかといった質問、アメリカの小さな町の価値観とユンカーマン氏の考えとの違いなどをめぐって、率直な意見の交換が行なわれました。
講演をうかがいながら、私はずっとユンカーマン氏の立ち位置ということを考えていましたが、それはアメリカと日本の両方に根ざしながら、そのどちらでもない、国境を超えた市民社会ではないか、また、そこで生みだされる議論や情念を映像によって表現する手段をもつユンカーマン氏は、自分では少数派だと謙遜しながらも、実は今後の世界を動かす強い影響力をもつ人物なのだという思いを深くしました。
報告者:能登路雅子(AFS13期:1966-67アメリカ留学)
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