バイオリニスト
メキシコ国立自治大学(UNAM)、米国ジュリアード音楽院を経て、ウェスタン・イリノイ大学卒業。鳴門教育大学大学院音楽コース修了。
メキシコシティの「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」、チアパス州立大学(UNICACH)にて後進の指導にあたるほか、ソリストや室内楽奏者として活躍。現在、マヤ系先住民族音楽グループ「サク・ツェヴル(Sak Tzevul)」のメンバー。
—まず、現在の活動について教えてください。
現在は、メキシコ最南端チアパス州のマヤ系ツォツィル族の村・シナカンタンで生活しながら、先住民族音楽グループ「サク・ツェヴル」で歌とバイオリンを担当しています。古くからこの地に伝わる伝統音楽を核に、先住民族の言葉・ツォツィル語で歌っています。それを通して何千年にもわたって栄えてきたアメリカ大陸の文化を見直し、自分たちのルーツや伝統の大切さを次世代に伝えたいと願い、メキシコ国内外で演奏活動を行っています。
この他に、伝統音楽家育成のための指導を行ったり、ストリートチルドレンのための施設で週に一度バイオリンを教えたりしています。施設では弾き方のテクニックを教えるだけではなく、子どもたちが自信をもって社会にでていけるような基礎作りを、音楽を通して手伝っているという感じですね。
—高校留学でメキシコを選んだ理由を教えてください。
4才からバイオリンを習っていたのですが、5才のときにバイオリニストの黒沼ユリ子さんに「小さいのに上手ね」と褒められたことが励みになって、それからずっと音楽を続けています。
14才のときにメキシコの音楽学校「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」から12人の生徒が来日して、日本のこどもたちと合宿しながら各地で演奏会を開くという機会がありました。そこでメキシコのこどもたちが、思っていることをイキイキと音楽で表現できている姿を目の当たりにして、その秘密を探りたいと思ったのが、メキシコに留学したきっかけです。
高校生で留学できたことは、本当に良かったと思います。現地の家庭に入ることで、いいところも悪いところも含めて、本当の姿を見ることができましたから。
—留学中に驚いたことはありましたか?
最初にホストファミリーの家に着いたときに、金色の仏像が置いてあって、「懐かしいでしょ、お腹さわっていいよ」と言われたのにはびっくりしましたね(笑)。彼らなりに気を使ってくれたのだと思いますが、ステレオタイプというか、東洋の国はそういうイメージだったのでしょう。
日本文化も紹介したいと思い、高校では茶道部に入っていたのですが、いざメキシコで披露したときにはホストファミリーの家に友達がたくさん来て、ショーみたいな感じになってしまいました。「ブラボー!」なんて歓声があがって「お茶をたてるのにブラボーはないなぁ(笑)」と思ったのを覚えています。
—留学中はどんなことで苦労されましたか?
言語習得ですね。最初の6ヵ月は目にみえて上達しましたが、そのあとはなかなか上達しなくて「私は語学には向いていないのかな」と悩みました。それで開き直ってリラックスしていたら、あるとき急に新聞が読めるようになって…あれは不思議な体験でしたね。帰国後も半年ぐらい一切スペイン語は使っていなかったのに、19才でメキシコに戻ったときは、言葉がはっきりわかるようになっていました。
やはり休む期間というのは必要なのだと思います。バイオリンも同じで、「上達したい!」と切り詰めて頑張っているときは、案外停滞してしまうものです。ですから、あきらめずにがんばりましょうと後輩の皆さんにも伝えたいですね。
—帰国後には何か変化はありましたか?
留学中は一切日本の勉強はしていなかったのに、帰国後、高校での成績がすごく上がりました。スペイン語と似ているところがある英語はともかく、他の教科は1年間何もしなかったのにどうしてだろうと不思議でした。
もしかしたら、学校の教育から離れて、初めての場所で初めてのことを学んだのが良かったのかもしれません。日本では難しいと思っていたことが、もっと難しいことをして帰ってきたことによって「なんだ、日本語だから易しいな。もう何でも挑戦できるな」と思えるようになりましたから。
—高校卒業後はまたメキシコに行かれたのですよね。
はい。留学から戻って、音楽の道に進もうか違う道に進もうか迷っていたときに、黒沼先生にお誘いいただいて、19才で再びメキシコに渡りました。メキシコシティの国立自治大学(UNAM)の音楽学部でバイオリンを1年学んだあと、ニューヨークのジュリアード音楽院に進みましたが、競争の中でする音楽があまり好きではなくて、ウエスタン・イリノイ大学に転校して、そちらを卒業しました。
卒業後は一旦日本に戻って、実家のある徳島県の鳴門教育大学で教育を学び、そのあとは「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」で5年間バイオリンを教えました。
—マヤ先住民族の村の暮らしは、日本と似ている点もあるそうですね。
はい。例えば私が今着ている服は、1枚1枚正座で機織りをして作られていますし、巻きスカートに帯をするという着物のような構造です。そして、太陽とともに起きて、囲炉裏でトルティージャを焼いて、太陽が沈むときに寝るという、私の祖父母がしていたような生活が残っています。
「夢」もとても重要視されています。朝起きると家族が集まって「今日はこんな夢を見たよ」と話し、みんなそれを一生懸命聞いている。それは、夢の中で先祖からのメッセージをもらったり、お告げがあったりという考え方が、今もあるからなんですね。日本でも、昔は初夢の話をする習慣がありましたが、「昔は日本もこうだった」ということは、日本にだけいると忘れてしまいますよね。
—日本の高校生にメッセージをお願いします。
今は希望のほうの「夢」も見にくい世の中になってきていて、日本だけでなく世界中をみても、どうせ叶うわけないと諦めてしまう人が多いように感じます。
日本にいて、その生活しか知らないと他に道がないように感じますが、そうではない生活を一度でも体験すると、他の道もあることがわかって、ちょっと気持ちも楽になるかなと思いますね。
私の家族も音楽だけで生きていけるわけないと思っていたらしいのですが、最近になって「こういう生き方もあるんだね」と認めてくれていますから。
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